世宗(セジョン)の正室だった昭憲(ソホン)王后の場合、自分が王妃になって実家が大いに繁栄した。ただし、その後に待っていたのは奈落の底だった。まさに、昭憲王后は天国と地獄を経験した波瀾万丈の王妃だった。
申し分のない王妃
昭憲王后は、高麗時代から重要な官職を歴任するような名家の出身で、13歳のときに世宗と結婚した。このとき、世宗はまだ11歳だった。
嫡男が王位に就くことが原則の朝鮮王朝にあって、本来なら三男の世宗に出番はなかったのだが、彼があまりに優秀だったために、長男と二男が譲る形で世宗に王位がまわってきた。長男にいたっては、せっかく世子に決まっていたのに、わざと無能を装って出来のいい弟が王位に就くように仕向けたと言われている。
世宗は1418年、21歳のときに4代王として即位した。父の太宗が存命中にもかかわらず息子に王位を禅譲したのである。その結果、昭憲王后は思ってもいなかった王妃となった。
彼女は名門の出身らしく性格が温和で美女であった。しかも、彼女の父の沈温(シム・オン)は領議政(ヨンイジョン/官職の最高位。今でいうと総理大臣)まで昇進した。
自分は王妃で父は領議政。実家の権勢は当代随一だった。しかし、王位を息子に譲った太宗は眉をひそめていた。彼は上王としてなお政治的な実権を握っており、特に王の外戚が力をつけすぎることを警戒していた。
そんな折りに事件が起こった。それは、沈温が外交使節として明まで往来した途上で起こった。
「上王はいまだ軍事権を握っていらっしゃる。せっかく殿下(世宗)が王になられたのに、これはやりすぎではないのか」
沈温に同行していた実弟が、このように不満を述べたというのだ。これが太宗の耳に入り、問題が非常に大きくなった。
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