思悼世子(サドセジャ)/朝鮮王朝人物紀行8

老論派の策略

党派争いを終わらせた名君・英祖にも悩みがあった。多くの王が頭を痛めてきた後継者問題である。
英祖には正室がいたのだが、彼女は子供を産むことができず、1719年に側室から生まれた念願の男子・孝章(ヒョジャン)も、わずか9歳で亡くなってしまった。
ようやく二男が生まれたのは1735年だった。側室の映嬪李氏(ヨンビン・イシ)が念願の息子・荘献(チャンホン)を産んだのである。1歳で世子に指名された彼は、学問に励んだ。さらに、詩作や書道で才能を発揮するなど、幼いころから聡明であり、9歳になると老論派の重鎮である洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘を妻として迎えた。
しかし、荘献には自分の才能におぼれすぎるところがあった。さらに、老論派重鎮の娘と結婚していながら、少論派を支持していたのも問題だった。荘献は政権内部で警戒されるようになったのだ。さらに14歳のころには英祖から政治の一部を任されるが、老論派の重臣たちは、荘献の悪評を英祖に伝えて邪魔をしたのである。




そういった悪い噂を聞くたびに、英祖は荘献を呼び出して叱責するが、それが原因で親子関係に亀裂が入ってしまう。しかし、荘献もまったく反省をしていないわけではない。自分の立場を自覚した荘献は、反省文を書いて承政院(スンジョンウォン/王命の出納を担当する役所)に出した。
その反省文には、今まで自分が至らなかったと後悔していることや、自らを戒めて過ちを正していくことが書かれていた。英祖は荘献の改心をとても喜んだ。誰もが父子の関係は回復したように思った……。
(ページ3に続く)

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