称賛と罵倒の狭間で生きた申叔舟!

申叔舟(シン・スクチュ)は15世紀の朝鮮王朝を代表する知識人だった。ドラマ『王女の男』の中で申叔舟は、巧みな勧誘を拒めなくなって、ついに首陽大君(スヤンデグン)の味方になっていく。しかも、物語が進むにつれて、申叔舟自身の欲もクローズアップされた。彼は出世に目がくらんだ男だったのだろうか。





言語の達人

申叔舟は、4代王・世宗(セジョン)にとても可愛がられた知識人だった。
世宗は王朝内の文化技術をより一層発展させるために、集賢殿(チプヒョンジョン)という研究機関を作り、人材を広く集めた。
その中でもひときわ優秀だったのが申叔舟である。
彼は世宗とともに朝鮮王朝独自の文字「訓民正音(フンミンジョンウム)」(後のハングル)の創製に力を注いだ。
こうした実績が示すように、申叔舟は王朝の中でも指折りの学者であった。本を読むことを好み、向上心が並はずれていた。彼は自宅にある膨大な書物を読むだけでなく、王宮にある本や資料を片っ端から読みつくし、「もはや読んでいない本はない」と豪語できるほどだった。
勉学の甲斐があって、申叔舟は中国や日本の言葉にも精通するようになった。
彼の言語の知識はとてつもなく深かった。その学才を買われて、申叔舟は日本への特使に派遣されたこともあった。




世宗が存命時に申叔舟は多くの羨望を集めるが、6代王・端宗(タンジョン)の治世時代になって彼は豹変した。世宗に仕えた忠臣の多くが、王位を狙う首陽大君を非難したのに対し、申叔舟は首陽大君から懐柔されていたのだ。
結局、世宗に目をかけられた多くの忠臣たちが、首陽大君が王位を奪っていく過程で命を落とした。
その逆に、申叔舟は首陽大君が世祖(セジョ)として即位したあとに側近となり大出世を果たした。
庶民は、忠義に反するとして申叔舟を非難した。彼はそうした罵倒に苦しみながら晩年をすごさなければならなかった。
だが、申叔舟の慎み深い性格と格調高い知識を世祖は格段に評価していた。世祖と申叔舟は長年連れ添った友人同士のように苦しみを分かち合ったという。
申叔舟は、高い役職に就いた後も贅沢は一切せずに、学問に没頭した。
ストイックな姿は、自分に向けられた非難に耐えるために必要だったのかもしれない。

世宗を最高の名君にした訓民正音(フンミンジョンウム)の創製!

健康管理では名君と程遠かった世宗(セジョン)!

晩年の世祖は端宗を殺した祟りに苦しめられた!

おどろき朝鮮王朝4「世祖(セジョ)の非道」

世祖(セジョ)はなぜ朝鮮王朝でも評判が悪いのか




関連記事

特集記事

ページ上部へ戻る