中宗(チュンジョン)は時代劇で立派だが実際はダメな王だった(再読版)

重臣に逆らえなかった

国王になった中宗だが、クーデターを成功させた重臣たちから正妻の端敬(タンギョン)王后を離縁してくれと依頼された。なぜなら、端敬王后が燕山君の妻の姪であり、父親が燕山君の側近だったからだ。
重臣たちは燕山君の一派の復讐を恐れたのである。
本来なら、中宗が拒否すればいいだけの話だ。彼は王なのである。
しかし、気が弱い中宗は拒むことができず、愛する端敬王后を離縁した。結局、かつがれて王になった中宗は、クーデターを成功させた重臣に逆らえなかったのだ。
そこが、みこしに乗せられた王の弱さだった。
愛妻を実家に帰した中宗は、二番目の正妻として16歳の章敬(チャンギョン)王后を迎えた。
彼女は24歳だった1515年に中宗の最初の王子(12代王の仁宗〔インジョン〕)を産んだが、出産直後に亡くなってしまった。
やむなく、中宗は1517年にまだ16歳だった文定(ムンジョン)王后を三番目の正妻として迎えた。





彼女こそが後に仁宗を毒殺した疑いが強い悪女である。
中宗の治世は38年に及んだが、文定王后の暴走を許したという意味では彼にも大きな責任がある。
結局、中宗は国王になるべき人物ではなかった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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