称賛された「死六臣」/康熙奉の朝鮮王朝人物史7

世はすっかり世祖(セジョ)の天下になってしまいましたが、彼にこびへつらう人間ばかりではありません。「やっぱりおかしい。叔父が甥から王座を奪ってはいけない」と憤怒する人々がいて、世宗(セジョン)がハングルを創製するときに貢献した成三問(ソン・サムムン)の元に忠臣たちが集まりました。みんな優秀な高官や学者です。





6人の忠臣

成三問たちは、王座を奪われた端宗をもう一度王に戻そうと復位運動を起こします。
ちなみに、成三問という名前の由来は、彼が生まれるときに天から「もう生まれるか?」という問い合わせが3回あったからと言われています。
この成三問と6人の同志は、ちょうど中国(明)から使節が来ているときにクーデターを起こそうとします。使節を歓待する宴のときに世祖とその側近たちがみんな集まるので、そのときに乗じて殺してしまおうと計画したわけです。
その動きを韓明會(ハン・ミョンフェ)が察知します。また、クーデターを起こそうとした同志の中から裏切り者が出たこともあり、決起は成功しませんでした。
成三問をはじめ有力な高官6人が捕まり、世祖による拷問を受けます。彼らは優秀な人ばかりだったので、世祖は殺すのが惜しくなりました。そこで、「余を王と認めよ。そうすれば許して取り立ててやる」と持ちかけます。ここはいろいろなドラマで描かれている名場面です。




当時の拷問は、火であぶった鉄の棒を股の間に押しつけたりします。その拷問に堪えかねて、成三問たちが世祖のことを「王と認めます」と言ってしまったら、彼らは世間から笑われていたでしょう。忠臣の看板も下ろさなければなりません。しかし、成三問は決して拷問に屈しませんでした。むしろ、拷問をする役人に向かってこう叫ぶほどでした。
「まだ鉄が生ぬるい。焼きなおしてこい」
拷問に堪えた成三問は、世祖のことを「ナウリ」と呼びました。この「ナウリ」という言葉は今でいえば「旦那さん」くらいの意味で、王に対して言うと、大変な侮辱になります。しかも、成三問は「あんたなんて絶対に王と認めない」と言い放ちます。その瞬間に世祖は逆上し、残虐な方法で成三問たちを処刑しました。
こうして命を落とした6人の忠臣は、のちに「死六臣(サユクシン)」と呼ばれて大きな尊敬を集めます。義に殉じた高潔な志士というわけです。
ドラマ『王女の男』では、この死六臣の話が実にうまく使われています。金宗瑞(キム・ジョンソ)の息子スンユは死六臣が捕まっている牢獄に忍び込み、「助けに来ました。逃げてください」と言いますが、死六臣はテコでも動きません。そして、こう言うのです。




「我々は歴史の中で生き残る。この死を歴史に記録して、首陽(スヤン)という奴がどんなことをしたのかを後世の人たちが忘れないようにしたい」
その毅然とした態度は圧巻でした。まさに、視聴者の目がウルウルするような名場面で
した。
当時は極刑になるとからだをバラバラにされて、首をさらされました。父親や息子も同じく殺されて、妻と娘は世祖の側近たちの奴婢(ぬひ)にさせられました。一族が完全にほろぼされるわけです。
それでも死六臣は権力に屈しませんでした。歴史に残る大人物たちとして、今も尊敬されているのも当然かもしれません。

文=康 熙奉(カン・ヒボン)

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