権力欲が強い悪女
1009年、穆宗が宮廷内で伝統行事を見学しているとき、油の倉庫から火が起きた。これは単純なボヤではなかった。クーデターが起きたのである。穆宗はすぐに監禁されてしまった。
千秋太后は信頼していた家臣を呼んで反乱軍の鎮圧を命じたが、家臣は寝返り、金致陽と息子を殺害。穆宗と千秋太后は宮廷から追い出された。
さらに、都落ちの途中、反乱軍が追ってきて、穆宗に毒を仰ぐように迫った。穆宗が拒否すると、反乱軍は穆宗を殺害した。しかし、千秋太后には手をかけなかった。彼女の存在が恐れ多く、命を奪うことまでは到底考えられなかったのだ。
しかし、愛する息子を二人まで失った千秋太后。絶大な権力を握っていたからこそ、それを失うときの代償があまりに大きかったのである。
千秋太后は故郷に戻ってさらに20年間生き、1029年に65歳で亡くなった。彼女を追い落とした勢力が記録を綴ったこともあり、千秋太后は権力欲が強い悪女として歴史書に残った。しかし、現在の韓国では「強い高麗を築いて外敵から守った女傑」という評価も受けている。
文=康 熙奉(カン ヒボン)