甦る三国時代・高麗2/百済の歴史(後編)

660年に滅亡

第31代目の義慈王(ウィジャワン)の時代に、王宮があまりに贅沢三昧となって国防意識が薄れ、富国強兵に成功した新羅と中国大陸の唐との連合軍に一気に攻め込まれてしまった。
こうなると、百済もなすすべがなかった。
660年、百済は滅び、再興もかなわなかった。ここに、700年近くも続いた百済の歴史に終止符が打たれたのである。
しかし、百済から多くの人々が日本に渡った。逆にいえば、日本が百済の難民の受け皿になったのである。
ところで、日本では百済をなぜ「くだら」と呼ぶのであろうか。有力なのが、「クンナラ」から転じたという説だ。
「クンナラ」とは今の韓国語で「大きい国」という意味である。百済から来日した人々が「どこから来たのか?」と問われて、自分を大きく見せるために「クンナラから来た」と言ったのが、百済を「くだら」と呼ぶきっかけになったという。




確かに、「クンナラ」を早口で言うと「くだら」になる。
今となってはどこまで信憑性があるか確かめることができないが、「かもしれない」と思わせるようなエピソードである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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