1608年に光海君(クァンヘグン)は即位した。しかし、彼の側近は危機感を強めていた。兄の臨海君(イメグン)や異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)を支持する一派の巻き返しが恐かったのだ。
済州島に島流し
光海君が即位した後も、血なまぐさい争いが続いた。
結果的に、側近主導とはいえ、光海君は臨海君を配流したうえで殺し、1614年にはまだ8歳だった永昌大君の命も奪い、仁穆(インモク)王后を幽閉した。
このように、儒教倫理に反する政権運営だったが、光海君が荒廃した国土の復興に全力を注いだのも事実だった。
その点では、歴史的に光海君も一定の評価を得ている。しかし、彼の側近たちは権力の亡者として増長し、政治は信頼を失った。
宮中でも光海君の一派を追放しようという動きが水面下で起こった。
1623年、光海君は甥である綾陽君(ヌンヤングン)のクーデターによって、王位を奪われた。
光海君は江華島(カンファド)に島流しにされた後、最後は済州島(チェジュド)に送られた。当時の済州島といえば、都から一番遠い離島であり、王まで上がった人が島流しにされる場所としてはもっとも過酷だった。
それでも光海君はそこで18年間生き、1641年に66歳で生涯を終えた。
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