悠久の日韓古代史・第21回「善隣関係の復活」

徳川幕府が朝鮮王朝との外交関係の再開を申し出ると、朝鮮王朝は最終的に2つの条件を対馬藩に通達した。1つは徳川家康自らが国書を提出して関係修復を願い出ることで、もう1つは、先の戦で王家の陵墓を荒らした犯人を突き出すことだった。

静岡市にある徳川家康の像




朝鮮王朝側の事情

対馬藩はあせっていた。早く朝鮮王朝と貿易を再開したくて仕方がなかった。
そこでまず、国書を偽造した。家康の正式な国書を待つと長期間かかることを憂慮して、徳川幕府に内緒で国書を勝手に作成してしまったのだ。その偽りの国書は対馬藩から1606年11月に朝鮮王朝に提出されている。
もう1つの条件となっている陵墓荒らしの犯人。これも対馬藩は島内で捕らわれた2人の罪人を犯人に仕立てて、朝鮮王朝に引き渡した。
朝鮮王朝は2人が本当の犯人ではないとすぐにわかっていた。また、国書が偽造されたものであることも察していた。
本来なら、朝鮮王朝が烈火のごとく激怒して関係修復が霧散しても仕方はないのだが、朝鮮王朝はそのまま受け入れた。
たとえニセモノとはいえ、朝鮮王朝が要求したことに日本側は即座に対応している。これは朝鮮王朝としても体面を保てることだった。




さらに、朝鮮王朝として使節を日本に派遣せざるをえない事情があった。戦乱の最中に日本に連行された人々は5万人にのぼると推定されたが、その人たちの家族から「早く連れ戻してほしい」という嘆願書が無数に届いていた。政権としても、日本に渡って交渉せざるをえなかったのである。
(ページ2に続く)

悠久の日韓古代史・第1話「海を渡る人々」

悠久の日韓古代史・第2話「広開土王の時代」

悠久の日韓古代史・第20回「国交回復の動き」



固定ページ:

1

2 3

関連記事

特集記事

ページ上部へ戻る