カテゴリー:コラム
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朝鮮通信使は、江戸時代に12回来日している。第1回目の来日は1607年。それ以来、徳川将軍の代替わりの慶事によく日本を訪れた。一行の規模は400~500人。釜山(プサン)を出航してから船で瀬戸内海を通って大阪に上陸し、淀…
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1592年、長く朝鮮王朝の正宮としての役割を果たしてきた景福宮(キョンボックン)が、朝鮮出兵の際に焼失してしまった。戦乱が終わっても、王は住む場所にさえ困るようになった。そんな状況の中で、1617年に建設が始まって162…
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時代劇『イ・サン』の主人公になったのが22代王の正祖(チョンジョ)だった。朝鮮王朝の正式な歴史書である「朝鮮王朝実録」を読むと、小さい頃から大変な苦労をしていることがよくわかる。
7歳しか違わない祖母
176…
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朝鮮王朝には27人の王がいた。名君から暴君まで様々な人間が王位に就いていたが、一番異質な王を1人だけ挙げろと言われれば、それは25代王・哲宗(チョルチョン)を置いて他にいない。なぜ、彼が異質だったのか。それは、田舎の無学…
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古代の三国時代を描いた韓国時代劇を見ると、臣下の者たちが王に対して「陛下」と呼びかけている。読み方は語尾を伸ばして「ペーハー」となる。しかし、朝鮮王朝時代を描いた作品では、王のことを「殿下」と呼んでいる。こちらも語尾を伸…
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申叔舟(シン・スクチュ/1417~1475年)は、4代王・世宗(セジョン)に才能を見込まれ、ハングルの創製にも重要な役割を果たした。しかも、中国語や日本語に堪能で、1443年には外交使節として来日して室町幕府と交渉を行な…
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518年も続けば朝鮮王朝には数多くの王女がいたが、敬恵(キョンヘ)王女ほど波瀾万丈の生涯を送った王女は他にいないのではないか。敬恵王女は5代王・文宗(ムンジョン)の娘として1435年に生まれたのだが……。
波…
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死六臣とは、甥をおどして王座を強奪した7代王・世祖(セジョ)に対抗して王位奪還を計画した6人の高官をさしている。計画が失敗して全員が刑死・獄死したが、忠義に殉じた志は後世で称賛を浴びた。まさに“忠臣の鑑”であった。
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朝鮮王朝時代の後期になるにつれて、王の子供がどんどん少なくなる傾向があった。27人の王を比較してみると、前半の14代王・宣祖(ソンジョ)までは王の子供が178人いたのに対し、15代王の光海君(クァンヘグン)以降は全部で5…
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1592年4月に始まった朝鮮出兵。前年に、豊臣秀吉が大陸制覇をもくろんでいることを知った14代王の宣祖(ソンジョ)は、日本の内情を知るために使節を京都に派遣した。その使節の正使は黄允吉(ファン・ユンギル)で、副使は金誠一…
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