没落しても敬恵王女は「私は王の娘だ」と言った/康熙奉の王朝快談9

518年も続けば朝鮮王朝には数多くの王女がいたが、敬恵(キョンヘ)王女ほど波瀾万丈の生涯を送った王女は他にいないのではないか。敬恵王女は5代王・文宗(ムンジョン)の娘として1435年に生まれたのだが……。





波瀾万丈の人生

「朝鮮王朝の王女の中で一番美しかった」と評された敬恵王女。本来ならば、幸せな一生を送れたはずなのに、弟の6代王・端宗(タンジョン)が叔父から王位を奪われてから人生が流転した(端宗は後に死罪となっている)。
その叔父は7代王・世祖(セジョ)となったが、敬恵王女の夫に謀反の疑いをかけて夫婦を冷遇した。敬恵王女が果敢なのは、夫が流罪になったときに自分も配流地まで一緒に付いていったことだ。王族の女性で、過酷な環境を自ら進んで受け入れる人は他にいないだろう。それほど夫を愛していたのである。
配流生活の中で敬恵王女はお腹に新しい生命を宿した。それを知った世祖は「男子が生まれたらすぐに殺せ」と配下に命令を出した。復讐を極度に恐れたのだ。その直後に敬恵王女は男子を出産した。女子でなかったことが不運だったが、世祖の正妻だった貞熹(チョンヒ)王后がひそかに手をまわして、生まれたばかりの男子をかくまった。貞熹王后なりに、“罪滅ぼし”のつもりだったのだろう。




断腸の思いで我が子を手離した敬恵王女に、さらなる悲劇が起こった。夫が極刑に処され、自身も奴婢(ぬひ)に身を落とされたのだ。普通なら生きる希望を失いがちだが、敬恵王女はぜひとも生き抜かねばならなかった。お腹の中に再び新しい生命が宿っていたからだ。
妊娠中の彼女は、気高さを失わなかった。奴婢として使役を課されたが、「私は王の娘だ」と毅然と言って、お腹の子を必死に守った。
やがて娘が生まれたとき、敬恵王女は安堵した。世祖に狙われることがないからだ。
一方、貞熹王后に引き取られた息子はどうなったのか。その子は女子の服を着せられて宮中で育った。しかし、いつまでも隠せるものではない。やがて世祖の耳にも入ったが、その頃の彼は多少は寛容になっていて、敬恵王女の息子に手を出さなかった。そればかりか、彼女の身分を回復させる配慮を見せた。
とはいえ、敬恵王女の息子と娘には、極刑となった父の罪が未だ連座制によって及んでいた。
1468年に世祖が世を去ったあとに、高官たちの間から「敬恵王女の子供たちを絶対に処罰すべきだ」という上訴が何度も出された。




その度に、貞熹王后は大反対した。そればかりか、「上訴した者は厳罰に処す」という命令まで出した。
敬恵王女は、貞熹王后に感謝しながら1473年に38歳で亡くなった。後に息子は出世し、娘も良家に嫁いだ。
敬恵王女の子供たちは、それなりに幸せだったかもしれない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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