時代劇で先祖を悪く言われて抗議した子孫たち/康熙奉の王朝快談10

申叔舟(シン・スクチュ/1417~1475年)は、4代王・世宗(セジョン)に才能を見込まれ、ハングルの創製にも重要な役割を果たした。しかも、中国語や日本語に堪能で、1443年には外交使節として来日して室町幕府と交渉を行なっている。そのときの旅程は後に「海東諸国紀」として執筆された。名著のほまれが高い。





『王女の男』ではどう描かれたか

申叔舟が来日した1443年というと、ハングルが完成した年である(公布は1446年)。彼が外交から内政までいかに重要な役割を果たしていたかがわかる。
朝鮮王朝の最高官職である領議政(総理大臣に相当する)まで出世した彼は、世宗から9代王・成宗(ソンジョン)まで6人の王に仕えた。間違いなく、15世紀の朝鮮王朝を動かした大政治家だ。その彼が58歳で臨終を迎えたとき、成宗が「何か言い残すことはないか」と尋ねてきた。
すると申叔舟は「日本との平和な関係が失われないことを願います」と言った。この言葉からもわかるように、申叔舟は常に日本との外交に心をくだいていたのである。
申叔舟の死後、彼の遺言を重く受けとめた成宗は、中断していた日本への外交使節の派遣を再開させた。ところが、重要な役割を担った使節たちが腰抜けだった。海を渡る際の風浪の激しさに恐れをなし、対馬までは行ったものの、すぐに引き返してしまったのだ。




結局、申叔舟の遺言は生かされなかった。それが、後に豊臣軍の攻撃を受ける一因にもなってしまった。
こうした一連の話を再び思い出したのは、韓国時代劇『王女の男』に申叔舟が重要な役で出ていたからだ。ただし、好ましい役ではない。彼は、甥の端宗(タンジョン)から王位を奪うことを画策する首陽大君(スヤンデグン)の手先になっていた。それも、出世のために正道に反するような行ないをするのである。
結局、首陽大君は端宗から王位を奪って7代王・世祖(セジョ)として即位する。『王女の男』では、そのクーデターの首謀者の1人として申叔舟が描かれていた。
それに我慢がならなかったのが申叔舟の子孫たちだった。今までは自慢の先祖で「朝鮮王朝の最高の政治家の1人」と称賛していたのに、『王女の男』では出世に目がくらんだ不忠の人物になっている。許せないと思った子孫も多かったようで、ドラマを放送した韓国KBSに激しく抗議した。
KBS側も「朝鮮王朝実録」に記されている事実を根拠にして、申叔舟の子孫たちと話し合いを持ち、ドラマ制作の意図をていねいに説明したそうだ。




それでも、子孫たちは納得できなかった。先祖のことに誰もが詳しい韓国では、複雑な思いで韓国時代劇を見る人が多いのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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