「死六臣」は信念で世祖に歯向かい続けた/康熙奉の王朝快談8

死六臣とは、甥をおどして王座を強奪した7代王・世祖(セジョ)に対抗して王位奪還を計画した6人の高官をさしている。計画が失敗して全員が刑死・獄死したが、忠義に殉じた志は後世で称賛を浴びた。まさに“忠臣の鑑”であった。





国王を罵倒した男たち

死六臣の中心人物となったのは成三問(ソン・サムムン)と朴彭年(パク・ペンニョン)の2人だ。
成三問は、聖君とも称された4代王・世宗(セジョン)に可愛がられた高官で、世宗がハングルを創製する過程でも大きく貢献している。
これほどの逸材をむざむざと殺すのが惜しいと考えたのか、世祖は「余を王と認めれば罪を許そう」と言って成三問を懐柔しようとしたが、成三問は最後まで世祖の王位を否定し続けた。
怒った世祖が「余の禄で生活しているくせに」と成三問を罵倒したが、彼は「禄には手をつけていません」と答えた。この場合の「禄」とは「給料」を指す。
実際に調べてみると、成三問は非常に貧しい生活をしていたにもかかわらず、世祖からもらった禄にはまったく手をつけていなかった。
成三問への拷問はひどくなる一方で、彼は焼いた鉄の棒をからだに押しつけられたが、むしろ「鉄を焼き直してこい」と平然と言い放って信念を変えなかった。




朴彭年は、“秀才の中の秀才”と評された男で、学問と書に優れていた。彼は世祖の前に引っ張りだされたとき、世祖から「心を入れ替えて余に尽くすなら命を助けてやろう」ともちかけられた。
しかし、朴彭年は心変わりしない証拠として、世祖のことを「ナウリ」と呼んだ。これは「ダンナさん」に相当する呼び方であり、王に対する強烈な侮辱だった。
世祖は「そちは余の臣下ではないか」と朴彭年を問い詰めたが、朴彭年は「私は先王の臣下であって、ナウリの臣下を称したことは一度もありません」と答えた。
そこで、世祖は朴彭年が記した書状を徹底的に調べたのだが、確かに、朴彭年は呼称に臣下を用いず官職名だけを書いていた。どうしても“臣下”と書かざるをえないときは、“臣”の代わりとして“巨”という漢字を使っていた。そこに朴彭年の徹底した反骨精神があらわれている。
死六臣の場合、自分だけではなく、父、兄弟、息子も処刑され、家族の女性たちはこぞって奴婢にされた。一族が滅ぼされるのがわかっていても、彼らは最後まで固い意志を守り通したのだ。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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