派閥闘争の弊害が国難につながった/康熙奉の王朝快談6

1592年4月に始まった朝鮮出兵。前年に、豊臣秀吉が大陸制覇をもくろんでいることを知った14代王の宣祖(ソンジョ)は、日本の内情を知るために使節を京都に派遣した。その使節の正使は黄允吉(ファン・ユンギル)で、副使は金誠一(キム・ソンイル)だった。





意見の対立

日本の情勢をうかがって戻ってきた2人は、まったく別の見解を披露した。黄允吉が「日本側は戦争の準備をしています。攻めてくる可能性が高いと思われます」と報告したのに対し、金誠一は「心配はないでしょう。攻めてくる気配はありません」と言った。
このように見解が違った場合、高い立場にいる正使の意見が採用されそうだが、実際にはそうならなかった。それは、金誠一が所属していた派閥のほうが当時の朝鮮王朝で政治的に力を持っていたことが大きな理由だった。
結局、正使でありながら黄允吉の報告は無視され、朝鮮王朝は日本が攻めてくる可能性がないと勝手に判断して、国防をおろそかにしてしまった。
当時の朝鮮王朝は、200年続いた太平のぬるま湯にひたりきっていた。一方の日本は、長く続いた戦国時代がようやく終息したばかりで、兵は戦乱で鍛えられていた。その日本が大軍で攻めてきたものだから、朝鮮王朝はひとたまりもなかった。李舜臣(イ・スンシン)という、世界の海軍史に名を残す傑出した将軍がいなかったら、果たしてどうなっていたことか。李舜臣が今も韓国で4代王・世宗(セジョン)と並ぶほどの尊敬を集めているのもよくわかる。




それにしても、なぜ金誠一は間違った報告をしたのだろうか。
彼は死罪が免れないところだったが、親友の柳成龍(リュ・ソンニョン)が助命を願い出て命を救われた。その柳成龍が金誠一に真意をただしたことがあったが、そのときに金誠一は「日本が絶対に攻めてこないとは思っていなかった。ただ、黄允吉の言葉でみんなが恐怖におののいていたので、それをやわらげたかった」と語った。
いたずらに不安をあおりたくない、ということなのだろうが、敵情視察に行った使節としては失格である。
しかも、派閥闘争の影響で国論が決まってしまうとは、大被害をこうむった民は嘆いても嘆ききれないだろう。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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