「千秋宮」という尊称
943年に王建が亡くなったあと、高麗王朝では王位継承をめぐる混乱があったが、10世紀の末になると国内が安定を取り戻していた。そして、997年に千秋太后の息子が7代王・穆宗として即位した。
穆宗はまだ17歳であり、千秋太后は王の母といっても33歳と若かった。血気盛んな年齢だったこともあり、王の母として背後で影響力を行使することにとどまらず、千秋太后は自ら政権の前に進み出て、強力な指導力を発揮した。ちなみに、千秋太后は王宮の中で「千秋宮」に住んでいたことからその尊称で呼ばれた。
特に彼女が力を入れたのが北方の防衛だった。当時、契丹が勢力を強めて高麗王朝の領土を奪う動きを見せており、千秋太后は北の国境沿いに多くの城塞を築いた。この功績は大きく、城塞は契丹の侵入を防ぐ有効な砦となった。
その一方で、千秋太后の悪行の一つとされたのが、穆宗の後継者をめぐる暗躍だった。彼女は自分の愛人だった金致陽(キム・チヤン)と一緒に政治を仕切っていたが、我が子の穆宗に息子がいなかったために、いつも後継者問題で頭を痛めていた。
ついには、金致陽との間に生まれた息子を次代の王に即位させようと考えた。それを実現させるために、他の有力な後継者候補の命を狙おうとした。そんなたくらみが発覚して、千秋太后に対する不満が宮廷内でも大きくなっていった。
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