王妃たちが国母であった時代「第1回」

没落した王妃の実家

1396年、神徳王后は40歳で世を去った。これを機に芳遠は攻勢に転じ、1998年に決起して異母弟の芳蕃と芳碩を殺し、政権を掌握した。隠居同然だった太祖はこの骨肉の争いを傍観しているしかすべがなかった。
用心深い芳遠は先に兄の芳果を2代王に祭り上げたうえで、1400年にようやく3代王・太宗(テジョン)として即位した。
太宗の正妻は元敬(ウォンギョン)王后で、夫が王になるために大きな働きをした功労者であった。しかし、太宗が即位後に側室をあまりに多く抱えたために夫婦仲が極端に悪くなった。
太宗は外戚の力を牽制することが王朝の存続につながると考え、1410年に元敬王后の複数の兄弟たちを処刑した。そのことを元敬王后がとても恨んだので、太宗の側近たちは彼女の廃妃を主張した。しかし、太宗はそれに応じなかった。今までの“内助の功”と息子を4人も産んでくれたことを恩に感じたからだ。




その息子の中で、三男だった忠寧(チュンニョン)が1418年に4代王・世宗(セジョン)となった。それを見届けてから、元敬王后は1420年に55歳で世を去った。
世宗の正室は、昭憲(ソホン)王后だった。彼女の父や叔父は政権の中枢を握るほど権勢を誇ったが、外戚が強くなりすぎることを警戒する太宗(世宗に譲位して上王になっていた)の謀略によって失脚。昭憲王后の実家は没落した。
彼女にとってはあまりに悲しい出来事だったが、世宗は妻を愛し、夫婦は8男2女に恵まれた。昭憲王后は1446年に51歳で亡くなり、“朝鮮王朝最高の名君”の世宗も1450年に53歳で世を去った。

王妃たちが国母であった時代「第2回」

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