兄弟同士の「骨肉の争い」
首陽大君側は勝負に出た。
まずは、安平大君が金宗瑞の側近を通じて北方の武器を密かに都へ運んでいるという噂を流した。
これは事実でなかったが、そういう噂を広めることで安平大君を牽制したのだ。
そこまで首陽大君が策略を用いていたのに、安平大君と金宗瑞は迂闊(うかつ)だった。「首陽大君が父である世宗の意思にそむいて甥の端宗から王位を奪う」とは考えていなかったのだ。
しかし、現実は違った。
首陽大君は1453年にクーデターを起こして、金宗瑞と同調する大臣たちを排除した。その上で、安平大君を反逆の首謀者に仕立てあげた。
結局、安平大君は流罪にされた末に死罪となった。
このように、兄弟同士の対立は、「骨肉の争い」を生んでしまった。
無念の死を遂げた安平大君……。
芸術家でもあった彼の死は、朝鮮王朝にとっても大変な痛手であった。
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