申師任堂!今も尊敬される良妻賢母の鑑

孝行心の強かった申師任堂

1522年、18歳になった申師任堂は、李元秀(イ・ウォンス)と結婚した。孝行心が強かった彼女は、結婚しても実家のことがとても気がかりだった。父は彼女が嫁ぐとすぐに亡くなり、母は1人寂しく暮らしていたのだ。
この時代は女が一度嫁入りしたら、実家を訪ねることが難しく、彼女が帰省できたのは、結婚して数年経った後だった。久しぶりに見る母は、とても老いて小さく見えた。申師任堂はそんな母を見ると、懐かしさと悲しさでいっぱいになった。
母娘は短い時間に語り明かした。しかし、再会の楽しみは別れの悲しみを助長させた。申師任堂はそうした感情を「母を思いて」という詩にこめた。彼女は実の母にできなかった分まで、義理の母に孝行心を抱き大切にした。
申師任堂と李元秀の夫婦には4男3女の子供たちがいた。彼女は両親がそうであったように子育てに人一倍情熱を傾けていく。




申師任堂の願いどおり子供たちはあらゆる分野で才能を示していく。特に、3男の李珥(イ・イ)は、朝鮮王朝を代表する儒学の大家となった。彼は3歳で文字を習い始め、13歳で官僚の試験に合格すると、腐敗した政治を正すために生涯を捧げた。李珥の活躍は後世でも高く評価され、韓国の5千ウォン札の肖像画にまでなった。他の子供たちも申師任堂の才能を色濃く受け継ぎ、芸術の分野で活躍した。
申師任堂のこうした子育ては高く評価されていて、現在も「良妻賢母の鏡」「国民の母」として敬われている。
2009年、彼女は韓国で初めて作られた5万ウォン札の肖像画となった。
親子で紙幣の肖像画になったわけだ。これほどの快挙は世界を見渡しても申師任堂だけではないだろうか。

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