11代王の中宗(チュンジョン)が三番目に迎えた正室が文定(ムンジョン)王后だった。この文定王后は、1534年に中宗の二男を産んだ。それが慶源大君(キョンウォンデグン)であり、文定王后は我が子を絶対に王にしたいと強欲を出した。
国王の病状悪化の中で
文定王后にとっては、中宗の長男であった世子(セジャ/王の正式の後継者)が邪魔だった。その世子は、慶源大君の異母兄だった。
文定王后は世子を亡き者にしようとして、彼の屋敷に放火した。世子はなんとか命拾いしたのだが……。
中宗は1544年に亡くなった。世子が中宗の後を継いで12代王・仁宗(インジョン)として即位した。
それから8カ月後のことだった。
文定王后が仁宗に対して「たまにはお顔を見せてきてください」と言ってきた。
大妃(王の母)からの誘いなので、仁宗は応じて文定王后のもとに出掛けていき、餅を食べた。
その後から仁宗は下痢で苦しむようになった。
6月25日になると、仁宗の病状が悪化した。
侍医の勧めがあって、仁宗は王宮の中で特に静かな場所に移った。一種の転地療法だった。その甲斐があって、やや病状を持ち直した。
すると、文定王后がとんでもないことを言いだした。「宮殿を出て懿恵(ウィギョン)王女の屋敷に行きたい」というのだった。
懿恵王女は文定王后の娘だが、すでに他家に嫁いでいる。しかも、王の病状が深刻なときに大妃が王宮の外に出るというのは異常なことだった。
このような騒動を起こそうとした文定王后の意図は何か。
まずは、高官たちを混乱させることだ。実際、文定王后の外出をめぐって、高官たちが対応に追われている。
もう1つの理由は、仁宗の病状悪化を王宮の外に広く知らせることだ。
王女の屋敷は人の出入りが多い場所にあった。そこに文定王后が行けば、人々がいろいろなことを噂して、結果的に仁宗の病状がもれる可能性が高かった。
それは、仁宗の王権が揺らぐことを意味していた。つまり、文定王后は王宮の中枢を攪乱(かくらん)したかったのだ。
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