5代王の文宗(ムンジョン)が世を去った1452年から燕山君(ヨンサングン)の暴政がひどかった16世紀の初頭までの年表を見てみよう。この時期にも朝鮮王朝では王位をめぐる大事件があった。
〔1452年〕
5代王の文宗(ムンジョン)が亡くなり、長男が6代王・端宗(タンジョン)として即位。まだ11歳なので、本来なら王族の長老女性が摂政をすべきだったのだが、端宗の母は彼を出産直後に亡くなっており、摂政の適任者がいなかった。
〔1453年〕
世宗の二男で文宗の弟だった首陽大君(スヤンデグン)が露骨に王位奪取に野心を見せて、端宗の後見人だった金宗瑞(キム・ジョンソ)を殺害。クーデターを成功させて政権を掌握する。歴史的には、「癸酉靖難(ケユジョンナン)」と呼ばれている。
〔1455年〕
首陽大君が端宗を退位させて7代王・世祖(セジョ)となる。端宗は上王となったが実権は一つもなかった。世祖は自分の王位獲得に貢献した側近たちを政権中枢に取り立てる。彼らは長く利権を独占し、新進の若手官僚たちの不満が高まる。
〔1456年〕
世宗を側近として支えた成三問(ソン・サムムン)を中心に、端宗の復位を狙ったクーデターを計画。しかし、失敗してしまい、首謀者たちが処刑される。彼らの忠義の心は後に「死六臣(サユクシン)」として称賛される。
〔1457年〕
端宗の復位を狙う動きを警戒した世祖は、甥の端宗を平民に降格させて、さらに死罪に処す。「悲劇の王」はわずか16歳で絶命する。
〔1468年〕
世祖が51歳で世を去る。彼の長男は、19歳のときにすでに亡くなっていたので、二男が8代王・睿宗(イェジョン)となる。
〔1469年〕
睿宗が19歳で亡くなる。在位わずか1年2カ月だった。世祖の息子は2人とも19歳で世を去ったことになるが、「甥から王座を奪った世祖の因果応報に違いない」と庶民たちは噂する。世祖の孫が即位して9代王・成宗(ソンジョン)となる。世祖の正妻だった貞憙(チョンヒ)王后が摂政を行なう。しかし、成宗の治世に影響を及ぼしたのは、彼の生母の仁粋(インス)大妃である(大妃とは王の母を表す尊称)。
〔1479年〕
成宗の正妻の尹(ユン)氏が廃妃になる。この決定の背後でも、仁粋大妃が大きな影響力を行使する。
〔1482年〕
廃妃となっていた尹氏が死罪となる。この出来事が、後の大虐殺事件の端緒となってしまう。
〔1485年〕
編纂開始から25年目、ようやく「経国大典」が完成。これによって、あらゆる分野の法制度が確定し、朝鮮王朝は法治国家としての体制を整えた。
〔1494年〕
成宗の後を継いで燕山君(ヨンサングン)が10代王となる。
〔1498年〕
道義と名分を重んじる士林派の高官たちを燕山君が粛清。「戊牛士禍(ムオサファ)」と呼ばれている(「士禍」というのは、派閥闘争の末に官僚・学者の多くが犠牲になる事件を指している)。
〔1504年〕
燕山君の母(尹氏)の死罪に関わった人たちが根こそぎ虐殺される。すでに死去している人は、墓をあばかれて首をはねられる。この出来事は「甲子士禍(カプチャサファ)」と呼ばれている。