粛宗(スクチョン)が仁顕(イニョン)王后を廃妃にした1689年から正祖(チョンジョ)が即位する直前までの朝鮮王朝の年表を見てみよう。この時期は、韓国時代劇でもよく描かれた大事件が多かった。
〔1689年〕
19代王・粛宗(スクチョン)が正妻の仁顕(イニョン)王后を廃妃にする。重臣たちが大反対したにもかかわらず、粛宗がそれを封じて独断的に実施。仁顕王后は実家に戻って謹慎する。代わって王妃になったのが張禧嬪(チャン・ヒビン)である。彼女が産んだ粛宗の息子も正式な後継者になる。張禧嬪の栄華は絶頂となったが、それも長くは続かなかった。粛宗は側室の淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏を寵愛するようになり、張禧嬪を遠ざけるようになる。
〔1694年〕
粛宗は、「奸臣(かんしん)にそそのかされて間違って処分してしまった」と語って、仁顕王后の復位を重臣たちに通告。それは、王妃になっていた張禧嬪の側室への降格を意味していた。
〔1701年〕
8月に仁顕王后が病死。王妃に復帰して7年だったが、彼女は粛宗の子供を産むことができないまま世を去った。その直後、淑嬪・崔氏の訴えにより、張禧嬪が神堂をつくって仁顕王后を呪い殺そうとしていたことが発覚する。粛宗は重臣たちを前に、「すでに罪が明らかになったのに、適切な方法を取らなければ後悔することになる。国家のためにも、張禧嬪を死罪にせよ」と厳命する。張禧嬪が世子の生母であることを理由に重臣たちは猛反対するが、粛宗は決定を変えなかった。こうして、張禧嬪は42歳で毒を飲んで絶命する。
〔1720年〕
粛宗が59歳で亡くなり、張禧嬪との間に生まれた32歳の息子が20代王・景宗(キョンジョン)として即位する。
〔1724年〕
在位4年2カ月で景宗が世を去り、淑嬪・崔氏が産んだ粛宗の息子が21代王・英祖(ヨンジョ)として即位する。彼は、各派閥から公平に人材を採用するという政策で成果を挙げる。
〔1762年〕
英祖が素行の悪さを理由に息子の思悼(サド)世子を厳罰に処す。思悼世子は米びつに閉じ込められて餓死するが、彼の死の背後には激しい派閥争いがあった。もともと、景宗を支持していたのが少論派で、英祖を支えていたのが老論派だった。英祖の治世となって老論派が勝利したのだが、思悼世子と老論派は相性が悪かった。結果的に老論派が思悼世子の排除に動き、思悼世子の行状を英祖に歪めて報告していたのである。それが悲劇の原因の一つとなった。
〔1775年〕
英祖が「気力が衰えてきて一つの政務を行なうことも難しくなってきた」と語り、思悼世子の息子を摂政にすると主張。重臣たちの多くが反対したが、英祖は軍の介入までちらつかせて強行する。