朝鮮王朝の年表6〔1776年-1865年〕
- 2019/3/11
- 年表
正祖(チョンジョ)が即位した1776年から高宗(コジョン)が即位した頃までの朝鮮王朝の年表を見てみよう。善政を行なった正祖が亡くなったあと、朝鮮王朝の政治は乱れてしまった。
〔1776年〕
21代王・英祖(ヨンジョ)が82歳で亡くなり、思悼(サド)世子の息子が22代王・正祖(チョンジョ)として即位。彼が手始めに行なったのは、父の思悼世子を陥れた者たちへの厳罰だった。特に、父の妹や母の親族が処罰されている。それほど、父は身内に敵を多く抱えていたのである。正祖が即位してからも敵対勢力は残っていて、暗殺団が王宮に侵入するという事件も起きている。そんな中でも、正祖は政治改革に意欲を見せ、身分の垣根を越えて学問に秀でた人材を抜擢。政治、経済、文化の各分野で多くの成果を達成している。
〔1880年〕
正祖の側近として大きな権力を握っていた洪国栄(ホン・グギョン)が、孝懿(ヒョイィ)王后を毒殺しようとしていたことが発覚。それまでの洪国栄の功績を考えて、正祖は彼を地方に追放するだけに留めた。
〔1794年〕
亡き父を心から追慕する正祖は、父の陵墓がある水原(スウォン)で大規模な城郭の建設を始め、2年6カ月後に周囲6キロのりっぱな城郭を完成させた。それが今は華城(ファソン)と呼ばれ、世界文化遺産に登録されている。
〔1800年〕
正祖が48歳で亡くなる。10歳の息子が23代王・純祖(スンジョ)として即位する。王族女性の最長老だった貞純(チョンスン)王后(英祖の二番目の正室)が摂政を行ない、敵対勢力が多いという理由でカトリック教徒の大弾圧を行なう。
〔1805年〕
前年に摂政から身を引いていた貞純(チョンスン)王后が世を去る。以後は、純祖の正室だった純元(スヌォン)王后の実家である安東(アンドン)・金(キム)氏の一族が政治を独占する。王の外戚が政治を牛耳ることを勢道(セド)政治と言う。
〔1811年〕
12月に政治腐敗に反抗して洪景来(ホン・ギョンネ)が挙兵する。一時は朝鮮半島北部の広い地域を占拠する。
〔1812年〕
洪景来が率いた蜂起軍は王朝軍の追撃を受けて弱体化。4月に王朝軍によって制圧され、洪景来も戦死する。
〔1830年〕
将来を嘱望されていた孝明(ヒョミョン)世子が21歳で早世。もし国王になっていれば間違いなく名君になっていたほど頭脳明晰だっただけに、その死は惜しまれた。
〔1834年〕
妻の外戚に政治を私物化されてしまった純祖が失意の中で世を去る。彼の孫が24代王・憲宗(ホンジョン)となる。7歳だったので、祖母の純元王后が摂政を行なう。
〔1849年〕
憲宗が22歳で急死し、田舎で農業をしていた無学の青年が25代王・哲宗(チョルチョン)として即位。それは、一族の影響力を残すために純元王后が画策した仰天人事だった。
〔1857年〕
純元王后が68歳で息を引き取る。純祖に嫁いでから55年、王の後継問題を主導するなど朝鮮王朝の政治を思いのままに操った。
〔1863年〕
哲宗が自堕落な生活の末に死去。後継の王は高宗(コジョン)。まだ11歳だったが、彼の父であった興宣大院君(フンソンデウォングン)が、安東・金氏の一族を政権の要職から追放することに成功。約60年間も続いた勢道政治が終わる。
〔1865年〕
興宣大院君が景福宮(キョンボックン)の再建に乗り出す。莫大な費用がかかったため、庶民は増税となって負担が増えた。