朝鮮王朝の年表7〔1866年-1910年〕

欧米列強の干渉を受けるようになった頃から朝鮮王朝が滅亡するまでの年表を見てみよう。朝鮮王朝の政治は混迷を深め、それによって植民地になる運命は避けられなくなってしまった。

〔1866年〕
興宣大院君(フンソンデウォングン)が鎖国政策に固執し、カトリック教徒を弾圧した。フランスの神父9人が殉教する事件が起きる。フランス政府は報復として江華島(カンファド)を一時的に占拠する。

〔1871年〕
アメリカが江華島に侵入。欧米各国の軍事行動が相次ぐ。

〔1873年〕
高宗の妻である明成(ミョンソン)皇后が政変を起こして興宣大院君を失脚させる。

〔1875年〕
日本の軍艦「雲揚号」が江華島の沖で挑発的な行動を取ったことで軍事衝突に発展。日本は朝鮮王朝に開国を迫る。

〔1876年〕
日本と朝鮮王朝の間で修好条規(江華条約)が締結された。この条約は、朝鮮王朝と清との宗主関係を否定したうえで、「主要な港の開港」「自由貿易の推進」「日本領事による治外法権」などが織り込まれていた。こうして、朝鮮王朝は開国に踏み切り、以後はアメリカ、フランス、ロシアとも通商条約を結ぶ。ただし、いずれも武力で威嚇された不平等条約だった。

〔1882年〕
朝鮮王朝の昔ながらの旧式軍隊の軍人たちが給料遅配や待遇悪化に抗議して反乱を起こし、日本公使館などが襲われる。この反乱は「壬午(イモ)軍乱」と呼ばれているが、興宣大院君の復帰によって収拾される。しかし、日本と清が朝鮮半島に兵を出し、両国の対立が深まる。

〔1884年〕
親日派を中心にした勢力がクーデターを起こして一時は王宮を支配。だが、清の軍隊が介入して「三日天下」に終わる。

〔1894年〕
農民が反乱を起こす(甲午〔カボ〕農民戦争。「東学党の乱」ともいう)。これを契機に、利権を争っていた日本と清が衝突して日清戦争が起こる。日本は勝利して、朝鮮半島から清を追い出す。

〔1895年〕
明成皇后が日本の勢力によって暗殺される。

〔1896年〕
高宗がロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを処罰。以後、ロシア寄りの政治が行なわれる。

〔1897年〕
国号を「大韓帝国」と改め、初代皇帝の座に高宗が就く。それ以前、朝鮮王朝は中国に気兼ねして、自ら皇帝と称することはなく、格が一つ下がる形の「王」を自称していた。しかし、日清戦争において日本が勝利したことで、清は朝鮮半島で影響力を失い、それにともなって朝鮮王朝は独立の証として「帝国」を名乗るようになったのである。

〔1904年〕
朝鮮半島における権益をめぐって、日本とロシアが開戦。

〔1905年〕
日露戦争に勝利した日本は大韓帝国の外交権を奪い、統監府を設置して内政にも干渉する。

〔1907年〕
高宗がオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の干渉に対する不当性を訴える密使を送る。失敗に終わり、高宗が退位。純宗(スンジョン)が後を継ぐ。

〔1910年〕
8月22日に日本と大韓帝国の間で「日韓併合ニ関スル条約」が調印される。統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、朝鮮王朝が滅亡する。

朝鮮王朝の年表1〔1392年-1450年〕

朝鮮王朝の年表2〔1452年-1502年〕

朝鮮王朝の年表3〔1506年-1607年〕

朝鮮王朝の年表4〔1608年-1688年〕

朝鮮王朝の年表5〔1689年-1775年〕

朝鮮王朝の年表6〔1776年-1865年〕

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