朝鮮王朝の年表1〔1392年-1450年〕

朝鮮王朝が建国された1392年から4代王・世宗(セジョン)が亡くなる1450年までの年表を見てみよう。朝鮮王朝の序盤には早くも国王の後継者をめぐって骨肉の争いが起きている。

〔1392年〕
高麗(コリョ)王朝の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)が最高実力者となって高麗王を追放。朝鮮王朝を創設し、初代王・太祖(テジョ)として新しい法整備に取り組む。

〔1393年〕
国号を「朝鮮(チョソン)」に決定。この「朝鮮」は紀元前に脈々と続いた国名であり、由緒ある名を受け継ぐ形となる。

〔1394年〕
高麗王朝の都は「開城(ケソン)」であったが、最適な場所に遷都する必要性を痛感した太祖は、風水思想に基づく適地を模索。生命の「気」が満ちる場所として漢陽(ハニャン)が選ばれる。都にふさわしく漢城(ハンソン)とも呼ばれたこの都市は現在のソウルである。

〔1395年〕
正宮となる景福宮(キョンボックン)の建設が始まる。正門の位置をめぐって論争が起きる。仏教の僧侶は「南側に火を起こす気があるので、正門を東向きにしたほうがいい」と主張し、儒教学者は「王は南に向かって政務を行なえば王朝が長続きする」と反論。激論の末に太祖は「南向き」を採用。この決定は朝鮮王朝が儒教を国教にすることを暗示する。以後、「崇儒排仏」という「儒教を尊重して仏教を排斥する」政策が断行される。

〔1396年〕
太祖の二番目の正室で、王朝創設時から王妃だった神徳(シンドク)王后が世を去る。彼女の息子の芳碵(バンソク)が次代の王を意味する世子(セジャ)だったが、神徳王后の死去で王の後継者争いが激しくなっていく。

〔1398年〕
太祖の息子たちによる骨肉の争いが激化。五男の芳遠(バンウォン)は芳碵の後見人で王朝最高の功臣だった鄭道伝(チョン・ドジョン)を殺害。その後に芳碵を排除して実権を握る。歴史的に「第1次王子の乱」と呼ばれる。その結果、太祖は退位して二男の芳果(バングァ)が2代王・定宗(チョンジョン)として即位。しかし、権力を掌握していたのは芳遠で、定宗には実権がなかった。

〔1400年〕
太祖の四男・芳幹(バンガン)が王位を狙って挙兵。芳遠と対立するがすぐに鎮圧されて芳幹は流罪となる。これを「第2次王子の乱」と言う。芳遠は、王位継承をこれ以上混乱させないために、3代王・太宗(テジョン)として即位する。

〔1408年〕
隠居していた太祖が73歳で息を引き取る。

〔1418年〕
太宗が王位を三男に譲る。4代王・世宗(セジョン)の誕生である。しかし、太宗は上王として軍事を掌握し、相変わらず最高実力者だった。

〔1422年〕
太宗が死去。名実ともに世宗時代が始まる。

〔1443年〕
世宗の主導によって、民族固有の文字である訓民正音(フンミンジョンウム)が完成する。訓民正音は後の「ハングル」である。

〔1446年〕
訓民正音が正式に公布される。しかし、特権階級による漢字偏重政策が続いて、訓民正音は世宗がめざしたほどには普及しなかった(真の意味で国語になったのは19世紀の末になってからである)。

〔1450年〕
世宗が53歳で亡くなり、長男が5代王・文宗(ムンジョン)として36歳で即位。学識に優れた王だったが、あまりに病弱だった。

朝鮮王朝の年表2〔1452年-1502年〕

朝鮮王朝の年表3〔1506年-1607年〕

朝鮮王朝の年表4〔1608年-1688年〕

朝鮮王朝の年表5〔1689年-1775年〕

朝鮮王朝の年表6〔1776年-1865年〕

朝鮮王朝の年表7〔1866年-1910年〕

関連記事

ページ上部へ戻る