朝鮮王朝の年表3〔1506年-1607年〕

燕山君(ヨンサングン)がクーデターで廃位となった1506年から光海君(クァンヘグン)が即位する直前まての朝鮮王朝の年表を見てみよう。16世紀前半は中宗(チュンジョン)の治世が長く続いた。

〔1506年〕
朴元宗(パク・ウォンジョン)、成希顔(ソン・ヒアン)、柳順汀(ユ・スンジョン)が中心になってクーデターを起こし、燕山君(ヨンサングン)を王宮から追放する。その結果、燕山君の異母弟にあたる晋城大君(チンソンデグン)が11代王・中宗(チュンジョン)となる。このクーデターは「中宗反正(チュンジョンバンジョン)」と呼ばれている。「反正」の本来の意味は「乱れを正すこと」だが、歴史的には、「悪い王を追放して新しい王が即位すること」を意味している。

〔1519年〕
儒教的な賢人政治を主導した趙光祖(チョ・グァンジョ)が死罪となる。もともと、中宗は「中宗反正」を成功させた高官たちに頭が上がらず、王としての独自色を出すために高潔な趙光祖に期待した。しかし、その高邁な理念をやがて中宗は敬遠するようになり、最終的に趙光祖が失脚。彼とともに多くの同志が死罪か失脚となる。この出来事は、「己卯士禍(キミョサファ)」と呼ばれる。

〔1544年〕
中宗が56歳で亡くなり、息子が12代王の仁宗(インジョン)となる。

〔1545年〕
仁宗が在位9カ月で死去。継母の文定(ムンジョン)王后(中宗の三番目の正室)が毒殺したという噂が流れた。この文定王后の息子が13代王・明宗(ミョンジョン)として即位。文定王后は摂政を行ない、権勢をほしいままにした。

〔1565年〕
政治を私物化して朝鮮王朝を混乱させた文定王后が世を去る。

〔1567年〕
明宗が亡くなり、14代王・宣祖(ソンジョ)が15歳で即位する。

〔1570年〕
儒教の大学者の李滉(イ・ファン)が死去。李退渓(イ・テゲ)という号でも知られる。現在、韓国の千ウォン紙幣の肖像画になっている。

〔1575年〕
朝鮮王朝の政治を動かしていた高官の間で激しい意見対立があり、東人派と西人派に分裂。以後、朝鮮王朝は激しい「党争」の時代に突入する。

〔1591年〕
日本に派遣されていた使節が帰国し、日本の情勢を宣祖に報告。正使の黄允吉(ファン・ユンギル)は「日本が攻めてくる可能性が高い」と言ったのに対し、副使の金誠一(キム・ソンイル)は「攻めてこない」と強調。当時の政権は派閥争いの中で東人派が優勢であり、その東人派に所属していた金誠一の意見が通ってしまう。その結果、朝鮮王朝は国防の強化を見送る。

〔1592年〕
4月13日、豊臣軍が釜山(プサン)に上陸。壬辰倭乱(イムジンウェラン/日本でいえば文禄の役)が始まる。5月2日には都の漢陽(ハニャン)が陥落する。宣祖はいちはやく北に向かって逃亡し、王としての責務を放棄する。苦境に陥った朝鮮王朝だが、水軍を率いた李舜臣(イ・スンシン)の大活躍で挽回する。

〔1598年〕
豊臣秀吉の死をもって壬辰倭乱が終結。最後の海戦で李舜臣は流れ弾が当たって戦死す
る。

〔1607年〕
朝鮮王朝と江戸幕府の間で外交関係が築かれ、最初の朝鮮通信使が日本を訪れる。合計して、江戸時代に朝鮮通信使は12回来日している。

朝鮮王朝の年表4〔1608年-1688年〕

朝鮮王朝の年表5〔1689年-1775年〕

朝鮮王朝の年表6〔1776年-1865年〕

朝鮮王朝の年表7〔1866年-1910年〕

朝鮮王朝の年表1〔1392年-1450年〕

朝鮮王朝の年表2〔1452年-1502年〕

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