光海君(クァンヘグン)が即位した1608年から張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗(スクチョン)の長男を産んだ1688年までの朝鮮王朝の年表を見てみよう。1623年には光海君が廃位となる大事件が起こっている。
〔1608年〕
15代王・光海君(クァンヘグン)が即位。
〔1610年〕
許浚(ホ・ジュン)が不朽の医学書「東医宝鑑」を完成させる。
〔1614年〕
光海君の異母弟だった永昌大君(ヨンチャンデグン)が政権側の刺客によって殺害される。これによって、光海君は多くの怨みを買う。
〔1623年〕
クーデターによって光海君が王宮を追放される。クーデターを主導した宣祖の孫が16代王・仁祖(インジョ)として即位する。歴史的には、「仁祖反正(インジョバンジョン)」と呼ばれている。
〔1627年〕
北方で勢力を伸ばした後金が3万人の兵力で朝鮮王朝に侵攻。最後は和睦が成立する。この出来事は「丁卯胡乱(チョンミョホラン)」と呼ばれている。
〔1636年〕
後金が国名を清に変え、10万人を超える大軍で再び朝鮮王朝を襲う。圧倒的な軍事力に対抗できず、仁祖は都の南にあった山城に籠城する。この出来事は「丙子胡乱(ピョンジャホラン)」と呼ばれている。
〔1637年〕
ついに朝鮮王朝は清に屈伏。仁祖は清の皇帝の前でひざまずいて謝罪。長男の昭顕(ソヒョン)世子を初めとする仁祖の息子たちが清の人質となる。
〔1641年〕
済州島(チェジュド)に配流されていた光海君が66歳で生涯を終える。光海君を王宮から追放した仁祖の一派によって、彼は徹底的に「暴君」に仕立てあげられたが、現代の歴史研究では「暴君」というより政治的には「名君」という評価も起こっている。大同法(現物で納めていた税を米穀に換算して納めるようにした法律のことで、庶民は減税となり、大地主は税が増えた)の実施、巧みな外交戦術が高く評価されている。
〔1645年〕
長い人質生活を終えて昭顕世子が故国に戻ってきたが、外国にかぶれたという理由で仁祖に冷遇される。しかも、昭顕は帰国後わずか2カ月で死去。仁祖に毒殺されたのではないかという噂が絶えなかった。
〔1649年〕
仁祖が54歳で死去。二男が17代王・孝宗(ヒョジョン)として即位。彼は父の怨みを晴らすべく、清への復讐を狙い続けたが、財政事情によって希望をかなえることができなかった。
〔1659年〕
孝宗が世を去り、息子が18代王・顕宗(ヒョンジョン)として即位。ただし、孝宗の継母の服喪期間が問題となって激しい「党争」が起こる。
〔1674年〕
顕宗が世を去り、息子が19代王・粛宗(スクチョン)として即位。商業の活性化など政治的な業績が多かった。
〔1688年〕
粛宗の側室だった張禧嬪(チャン・ヒビン)が粛宗の長男を産む。