過去の記事一覧

  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第3章「悪政」編

    成人した成宗は数々の政治的業績を残したが、問題を起こしたのが二番目の正妻となった斉献(チェホン)王后だった。彼女は後宮を追い落とす策略を露骨にやりすぎて、成宗の信頼を失った。 暴君の悪政 成宗の顔をひっかいて傷を負わせ…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第2章「激動」編

    世宗(セジョン)の長男が5代王・文宗(ムンジョン)として即位したが、病弱によって2年で亡くなり、その息子がわずか11歳という年齢で6代王・端宗(タンジョン)となった。 孤立した幼い王 端宗の母は文宗の正妻だった顕徳(ヒ…
  • 朝鮮王朝で王妃はどう生きたのか/第1章「建国」編

    李成桂(イ・ソンゲ)は1392年に朝鮮王朝を開いて、初代王・太祖(テジョ)となった。太祖の最初の妻は、神懿(シヌィ)王后で、夫婦には息子が6人いた。上から芳雨(バンウ)、芳果(バングァ)、芳毅(バンイ)、芳幹(バンガン)…
  • トンイと張禧嬪はいかに戦ったか5/疑惑編

    張禧嬪は仁顕(イニョン)王后を呪詛した疑いをかけられて死罪になりました。不可解なのは淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏です。彼女のことを、ドラマ『トンイ』で描かれたような明るいイメージの女性だと想像すると、ちょっと違います。…
  • トンイと張禧嬪はいかに戦ったか4/弾劾編

    1701年8月に仁顕(イニョン)王后が亡くなります。彼女は1694年に王妃に復位しましたが、7年で世を去りました。最後の1年半はずっと病床にいて起きられない状態が続きました。仁顕王后が亡くなった直後に、「張禧嬪が呪い殺す…
  • トンイと張禧嬪はいかに戦ったか3/激動編

    粛宗(スクチョン)と淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の出会いの背景には派閥闘争がからんでいました。当時、政治的に西人(ソイン)派と南人(ナミン)派が激しく争っていました。その中で、西人派は仁顕(イニョン)王后を支持し、南人…
  • トンイと張禧嬪はいかに戦ったか2/廃妃編

    1689年4月、粛宗(スクチョン)は突然高官を集めて、「仁顕(イニョン)王后はあまりにも嫉妬が強すぎる」と露骨に非難しました。朝鮮王朝時代には、地位のある人が妾を持ったりしました。それでも正妻は絶対に嫉妬してはいけないと…
  • トンイと張禧嬪はいかに戦ったか1/出会い編

    「トンイ」とはイ・ビョンフン監督が演出したドラマ『トンイ』の主人公の名で、歴史的には淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏のことです。彼女は張禧嬪(チャン・ヒビン)と激しい敵対関係にありました。これから5回にわたって2人のライバ…
  • 非道な王位強奪を強行した世祖

    朝鮮王朝最高の名君と称された4代王・世宗(セジョン)の長男が世子(セジャ)となり、二男の首陽(スヤン)大君には王になる望みがなかった。しかし、野心家の彼はあきらめなかった。その末に、起こったのが王位強奪事件であった。 …
  • 傲慢で執念深い燕山君

    燕山君は、9代王の成宗(ソンジョン)の長男として1476年に生まれた。彼は母の愛を知らず我がままに育った。実は、母の斉献(チェホン)王后は、自分以外の側室に目を向ける成宗に嫉妬して、宮中に呪いの言葉を持ちこんで追放されて…

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